玉三郎ポスター

もうすこし、坂東玉三郎さんの語る、芸の世界で得た言葉から学びたいと思います。きっとお仕事の場面でも活かせる言葉。

2/8にBS-TBSで、坂東玉三郎さんのスペシャル番組が放送されました。とっても深みのあることを、わかりやすい言葉に置き換えながら、ゆっくりと淡々と上品に語られるその語り口に引き込まれながら拝見させて頂きました。お仕事にも通ずることをおっしゃっていましたヨ。

玉三郎さんは、

「とにかく、綺麗なものがすきなの。

(DAZZLE(ダズル)演ずる)バラーレは、きっと綺麗なものになるでしょう・・。

きれいなものじゃないと嫌なの。

いまの世の中ってみんな、綺麗なもの みたいんじゃない?

でね、ヨーロッパーっていま、コンテンポラリーって綺麗なものって少ないんです。日本もそう、とにかく、

ケズっちゃってケズっちゃってロマンチックだったりとか、エレガントだったりとか、全部削った時代じゃない?

即物的で機械的でグラフィックで、もちろん悪くはないんだけれど、

もうちょっとこう、ロマンチックだったりとかエレガントだったりとかが

好きなの。

でね、ダズルにしても鼓動(和太鼓奏者)にしても、

それが続いていけるか?

継続とか持続って、おおきなチカラなんです。で、

継続して持続するっていうことは、どんどん変わっていかなきゃできないの

それか、いつ誰が食べてもおなじ美味しさの味をズーっと保つか。

舞台に関しては、同じ味でズーっと、

いけないんです。

で、継続って、いつも同じようにやっているのに、いつも新鮮で、観たくてお客さんが感動できるもので有り続けるって

とても大変なこと。」

この玉三郎さんの言葉を受けて、「変化していくこと」について考えました。

わたしの職場のことをすこし厳しめに言わせて頂くと、こんな人がいます。

技術職で入社しているのに、素人のような私たち(わたしは文系出身です)より勉強していなくって、万年後輩でい続けているような人や、事務職であたらしいスキルを学ぼうとせずに、スポット的に雇い入れた派遣社員の方々に負けてしまって、それでも平気なひとがいたりします。

たぶん、変化していくことが面倒なんでしょう。大変なことはしたくはないのでしょう。

でも、じょじょに職場に居づらくはなるハズです。そうした人相になっている。かなりヤバイんです。

なぜ社員も変化が必要なのでしょうか?

それは、企業がつねに変化しているからです。時代という顧客のニーズが変わり続けるから、それに合わせて企業も変わる。その変化に社員が付いていかなければ、企業のチカラは弱くなり、結果、最悪の場合には倒産してしまう。企業の中を元気にすることは経営者だけの仕事ではありません。

あなたは、「80VS20の法則」という法則があることを聞いたことがあるでしょうか?

会社に10人いたら、会社の利益の80%は2割の社員が生み出している、残りの8割は利益の20%しか生み出さない、というかなり確度のある法則です。10人の2人だけで利益の80%を稼いでいるんですね。

(自分本位で働いてるかたがたが8割いて、お互いを認め合えるかたがたが2割いる)

他人のことはどうでもいいんです。わたしは2割の社員をつねに目指したい。玉三郎さんは芸事で人間国宝になられ海外でも成功されさらに後進の育成にも熱心な方。サラリーマンではありませんけれど、もちろん2割の方のかたです。

たとえばもう今頃は梅が関東近辺では咲いています。早咲きの桜は3月にすでに咲き出します。花の写真撮影が好きなわたしは、きまって名所を訪れていた時期がありました。

その名所に降り立って一見するといつもの景色。でもよーくみると、いつもの梅や桜であっても毎年毎年咲く日も花の色合いも枝ぶりも違っている。

そしてそれを見ている自分はたとえば22才の自分から23才の自分に変わっているんですね。じつは、同じようでいて決して同じ花でも自分でもありません。

「また同じ季節がやってきました・・」とよく言われているけれど、じつは23才目で体験するはじめての経験なハズなんです。(わたしはこれからの春が楽しみです。いつもの同じ春を感じたいのではありません。ことしのいまの自分のはじめての新鮮な春に今からワクワクしています。変ですか?)

「おなじことをしている・・」と意識することが正しいこと当たり前のことのように、みなさん疑いません。でもそれは錯覚です。違和感大アリでしょうけれど。同じようにしてしまうのが人間ですけれど、その錯覚の習慣は人を怠惰にしてしまう。

人と人との出会いのことを「一期一会」といいます。わたしには1日1日が一期一会と感ずることがあります。だって、昨日の自分と今日の自分が違っていると感ずるからです。あらたな自分を発見していくことは楽しいことです。むつかしかったでしょうか?

変化していくことをチュウチョせずに変えている。わたしはそうしていたいんです。習慣になると決して大変でもなく、いや大変ですけれども、喜びは大きい、楽しい、うれしいことがたくさん舞い降ります、自分にです。

セブンイレブンの会社の会長さんの鈴木敏文さんは、「金のシリーズでは、顧客にはわからない程度に味を変えている」とおっしゃっていたことがあります。グルメの世界には、玉三郎さんのおっしゃる「同じ味でズーっと」ということもあるでしょうけれど、じつは作り手の試行錯誤はかなりあって、食べる側の気づいていない「工夫」という変化がとり入れられているのかもしれません。

かなりとりとめのないことをお話したように思われるでしょうけれど、顧客を飽きさせないために変えていくこともあるでしょうし、時代の流れで顧客も変わり、それに合わせて自分も変わる。といったことはお仕事の現場でも必ずある、ということです。

アナウンサーの「10年後の坂東玉三郎はどうなっていますか?」との問いかけに、

玉三郎さんは、

「よく、養父にはね、10年20年先のことを考えてしごとをしなさい、とよく言われたんです。

いまの自分だけを見るんじゃダメだと、・・でも僕にはできなかったんです。

10年20年先のことはわからない。だから、そこ(10年20年先)がよくなるためには

今日がよくならなきゃならない、明日が良くならなきゃならない。

10年20年先っていうのは自然に見えてきたり、とか、あっという間に10年先20年先になっている

今日と明日さえベストを尽くしていれば、その日にベストを尽くしているでしょう

たぶん玉三郎さんは、養父の方から言われたように先も考えてみたのだろうと私は思います。

そして、鋭い感性でわかった。先を考えることの限界に気づいた。その限界を知って、ではどうしたらいいのか?

と考えた先にあった答えが、

「今日と明日さえベストを尽くしていれば、その日にベストを尽くしているでしょう。」

だったのではないでしょうか?

じつは、当ブログでなんども登場していただいている(私が勝手に引用させて頂いておりますル)
初期仏教のテーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラさんが指導されている、
ヴィパッサナー瞑想が、いまに集中すること、の実践そのものなんです。

今日というよりもいまの10分に集中する。その間はなにも考えない。

(「瞑想」というとむつかしいといったイメージを持たれるかたも多いとおもいます。「仏教」というと「宗教くさい・・」と思われるでしょうか?わたしは関係者ではなくって、勝手にしているダケ。食器を洗いながらの仕方もあるし、歩く瞑想というのも紹介されています。すこし疲れたなっと思ったら、複式呼吸で「ふくらみ、縮み・・」と5分くらいしていると疲れが収まります。詳しくはDVDをご覧くださいネ!)

そうした練習がヴィパッサナー瞑想です。仏教の本家の本家のお釈迦様が悟りを得た方法である、世にあまたある他の瞑想法とはまったく似ていないもの。科学とぶつからない、科学的なのが初期仏教です。現代科学のしらない領域も知っていたりします。すこし話しが脱線ぎみ?ですか? 戻ります。

たぶん、踊りのお稽古をしていくことで、こうした深みのあることを自然にわかった方なのでしょう。(わたしに人間国宝の方を評論する立場はありませんけれども)

わたしも10年後を漠然とは考えています。どこに力点を置いておくのがイイのだろうか?と日々考えていますけれど、せいぜい2年後くらいまででしょうか?その先はかなり想定外の事が起こるだろうと想像しています。

(想定外といたことで昨日すこし考えていたことは、東京オリンピックがなくならないかな?ということ。「やっぱ、べつの国でしましょうか、みなさん・・」とならないかな?ということです。国際ルールから逸脱することってかなり変人として取り扱われる可能性は高いと私は思います。

そんなこともないとは思いますけれど、ちかごろの日本の戦後近辺の歴史を見直す動きで、裁判所での判断で間違えると、すくなくとも「おもてなし」したかった観光客は激減してしまうでしょうね、かなりヤバイと思いますヨ。こうした動きが加速するときっと世界の中で孤立していくでしょう日本は確実に。自滅したいとしかみえないですね。「自分は自分が・・」ばかりで生きてもね~。)

でも、今日を精一杯頑張らなくって、なんで明日がよくなるハズもないだろうとは常常思っています。

人間はドンドン変化していきます。成長していきます。(わたしは加齢による「衰える」も成長と思っています。「新鮮な経験」に一役かっていると考えているからです。唐突にもっというと、死ぬこともヒトの成長のためにあるのだと思います。自死はだめだめですけれど。人間はいつでもどこからでも変えられる、変われるんです!!)

車を運転したことがあるかたならわかる例え。停止している車が動き出すのにはかなりの動力が必要です。ひともおんなじ。エネルギーがたくさんいる。でも動き出してドンドンとギアを上げていって5速にすると、あとはあまりエネルギーは必要ありません。

勢いづくと、それが日常になって、快適になるんです。わずかなエネルギーで高速道路を爽快に飛ばすことに似ています。

停止しているときには、なにかで悩んでしまって身動きが取れないといった方(私にもそうした時期があります)の場合には、「強制していく」というすこし激しい気持ちがとっても大切です。このことは当ブログでたびたびお話ししてきました。

ひとさまから強制してやらされることは、誰でも面白くはない、不愉快なものです。わたしもそうです。でも、自分自身にじぶんで強制をしていく必要はあるんです。

ご自分に強制していくことができないと、その方は何にもなれませんし誰の役にも立てません。何ものにもなれないし、顧客が喜ぶことを真面目にしていくことはできません。

自分に強制することから降りてしまっている

強いられることの少ない時代の盲点のように私は感じます。「友達のような親子」にはいい部分とそうではない部分もある。顧客をもてなす、神様のように接客してきたことで、人々を甘やかせた部分もあるであろうと考えます。

今日は1で精一杯。それでイイんです。明日も1で精一杯。

でも3ヶ月もすると自分でも気づかぬ間に、5できていたり10できたりしていくんです。

ザックリと1年後の目標といったものは決めていく。社会に出ると学年が上がったりはしません。漫然としているとベストの加減が甘くなる。その目標を数ヶ月おきに「順調かな?」と確かめる。

「・・ができるようになる!」でもいいですし、しごとをしながら資格を取ることにしてもいい。なにも目標がなくっていいとは、玉三郎さんも思ってはいらっしゃらないと思いますヨ。

いきなり100はのぞまない。できなくたってイイんです。でもだれでも確実に成長していくことができる。

いま目の前のことだけを精一杯するだけでイイのだとわたしも思います。