後藤健二さんの最後の映像がテレビなどで頻繁にニュースになりました。いまでもその映像が流れています。座っている姿、目線。

「ひとがひとを残忍に殺すことがある。」「自分もこうして殺されることはあるのだろうか?」といった恐怖心と不安感をちいさなお子様の心の芯の芯に与えてしまった。もてあそぶような時間の経過も子供にとっては悪影響を増しているハズです。

賢明な親ならば、お子さんには見せない、そのようにされているご両親も多いと推測しています。

映画ではR指定されているとその映像は子供に悪い影響があるとして大人が取り扱いを守るものです。

今回の報道は、映画ではなくって現実です。映画以上の慎重さがあってよかった。さらなる大人の配慮があってよかった。

そんなことよりも情報公開したい意図があったのかもしれませんけれど、無防備にお子さんに見させていると、ココロの芯の芯の部分にダメージを与えてしまった可能性は大きいとわたしは感じています。

わたし自身も数日前にそのことに自分のココロの動きで感じ取り、これからは見ないようにしようと思いました。

大人の見ている世界と子供が見ている世界は異なります。生まれた間際のあかちゃんが笑っているのは、現実世界をしっかりわかって笑っているんではありません。たぶんあまり目もみえてはいない。ではなにで笑っているのか?

といえばそれは、あかちゃんのココロの中のイメージでです。イメージというのは想像力のようなものであって、現実に近い認識ではありません。そして事実認識よりもイメージの世界というのはエネルギーがはるかに強い。ココロに与える影響は事実認識よりもイメージの方がはるかに大きいし危ないんです。

思春期くらいまでの子供はこうしたイメージの世界が心を大きく支配しているので、かんたんにトラウマとなる。そうしたことがわかっているからこそ創造(≒想像)の産物である映画であってもR指定といったものがあるわけです。

何者かに対抗したい。情報を公開している民主国家です。と宣伝しておきたかったのでしょうけれど、結果、これから社会病理のようなカタチでトラウマがひとりひとりの心の中で影響を与えて生活で悪さをするであろう事を推測します。

「ひとがひとを残忍に殺すことがある。」「自分もこうして殺されることはあるのだろうか?」といった恐怖心と不安感をちいさなお子様の心の芯の芯に与えてしまった。

特別に個人的ななにかがあったわけでもないのに、これから恐怖心と不安感が強くあらわれる場合には、原因がココにある。そうした症状の方々は増えていくのだと推測します。

どこかのテレビの報道番組では、こうした危険な現場の報道を仕事とされているジャーナリストをどのように考えますか?といった特集がされていました。

わたしは、ジャーナリズムはあったほうがいい。でもご本人が殺されたり死んでしまわない程度までの報道で十分にいいと考えます。理由は、殺されないで生ききるほうがイイと考えるからです。「満足な人生だった・・」と本人が思って死ぬまたは殺されることはたぶんないと思うからです。(取材中に死亡したジャーナリスト)

行政・司法・立法という現代国家の権力の周辺。どこかの権力を増長するだけのジャーナリズムならない方がマシだとも考えています。

そうした権力に寄り添っている報道しかしていない国ってありますよね?(「ひとりよがり」、という点ではその国とよく似てきたとも思います)

そうした国では決してない!と思っているマにそうした国と代わり映えのしない国になるんです。

どこかの権力を増長するだけのジャーナリズムならばナイ方がいいのはなぜか?

理由はカンタンです。本来の民主主義の方面、民衆の立ち位置に寄り添うようにして立っているのが本来のジャーナリズムの役割だからです。(権力にとってケムタイのが本来のジャーナリズムなんです。権力の応援団のようなモノは民衆の敵なんですよ。みなさん煙に巻かれているようですけれど・・・)

2015年の日本ではどこかの権力に寄り添った報道をナリワイとしている方々がドンドン増えてしまった。長い目で見てイイことにはなりません、決してデス。

後藤健二さんをめぐっては日本のメディアと海外メディアでは取り上げられ方が異なるようです。海外メディアでの報道の仕方を簡単にいうと、後藤健二さんの人柄、生前どのようなことを語り生きていたのか、といったことが報道されている。生き方としてすばらしかった・・・という個人の人生の様をクローズアップしてみせた。

わたしは後藤健二さんにお会いしたことはありません。けれども、亡くなられたあの地の周辺で似たような想いでいた時期があります。「しんでもいい」といったところがわたしにはあった時期がある。

後藤健二さんの最後の映像で私が感ずるのは、死ぬ、殺されることも十分想像していたであろう、ということです。「殺されてもしなければいけないことが俺にはある。」と思っていたのではないか?

「生まれたばかりのお子さんを置いてなんて無茶な・・」とも思います。たぶん、自分が幸せになることでは人生に満足できなかったのでしょう。もしかしたら、自分がしあわせになることで、本来の自分の初心を忘れるようにはなりたくなかったのかもしれません。

そんなことを考えていると突然に坂本竜馬を思い出しました。ほとんどだれからも知られていなかった、司馬遼太郎さんも当初は小説にする気持ちがあまりなかったほどに知られていなかったような人物。その坂本竜馬さんは今では、有名な方ならばソフトバンク会長の孫正義さんも”尊敬する人物”とおっしゃります。いまの2015年の日本では多くの方々が尊敬している人物となりました。

なのでよく坂本竜馬を扱ったテレビ番組もありますね。

昨年なにかの番組で司馬遼太郎さんの記念館で竜馬ファンの方々のインタビューがされていました。インタビューされている方々の憧れている表情が印象に残ります。

わたしには「自己犠牲」といった本質としては同じものをみます。後藤健二さんもその他のなくなったジャーナリストも坂本竜馬も。(明治維新がなくってよかったのか?と問われれば、ひとりの人間の人生を大切に生き切るほうがはるかに大事デス!といいたいんです。)

じつはキリスト教もユダヤ教を源泉とした民族宗教です。異論はあるでしょうけれど、イスラム教もその地続きになっている。イエス・キリストもユダヤ教の信徒でした。一神教のこうした宗教ではかならず、イケニエが登場する。犠牲をいいものにしたてたい。

ジャーナリストはイケニエではないでしょうけれど、結果としては民主主義のための犠牲者とみえなくもありません。海外メディアでは、こうした犠牲者の死はいたむけれど、尊敬のまなざしで見るようなところもある。「わたしにはできない立派なことをした」と。

ひとの人生に限らずすべてには、原因があって結果があるのだと思います。なにかの原因があったから、坂本竜馬さんはあのような殺され方をしたのではないでしょうか?

あのような殺され方を望まれるかたはいないと私は思います。

もしも、「あのような殺され方はされたくないけれど、坂本竜馬のような生き方が好きです!」という方がいたとすると、それって変ですよね?違和感大有りでしょうか?

あのような生き方をすると殺したくなるようなひとを引き付けることもある。こうした見方が欠落しているとわたしは思います。わたしは転生輪廻といったことが信心ではなくあると考えているので、死に際は大事だと思います、人生の集大成の場面なので。(死に際がどれくらい大切なことなのかを知りたい方は、過去ログに”試練を磨き砂にしてこころを磨きたい と稲盛和夫さんは仰います。”があります。お時間がありましたらのぞいてくださいネ)

そして、敵の側でも自己犠牲してなくたったかたがたを英雄としてたたえる。この日本でも過去の歴史でありました。

最近の当ブログで、カリスマファンドマネージャーの藤野英人さんのご著書の「投資家がお金よりも大切にしていること」を紹介させて頂きました。

藤野英人さんは、清貧の思想がみなさん大好きだとおっしゃります。わたしは、その「清貧の思想」の根っこには「自己犠牲」の美徳といった考え方も悪さをしてしまっていると考えました。(思想といっていますけれど、「かんがえかた」と置き換えてみてくださいネ)

自分以外の世界の人々が豊かでしあわせになるならば、自分は死んでしまっていいのか?

悪いことをしてまでも豊かにはなりたくない。だから貧しくってもいいのか?

死ぬまでではないけれど、貧しくってもいいのか?

「ハイ!いいです!!」というのが清貧の思想です。

ホントにそれでイイんでしょうか?

アルボムッレ・スマナサーラさんがすすめる”慈しみの瞑想”では最初に

「わたくしが幸せであるますように」という言葉からはじまります。

あくまでも自分が幸せであるからこそ他人に慈しみを与えられるという考え方です。

清貧というのは自己犠牲的なヒビキがある。清貧のヒンの部分には「自分は自由でなくってもいい。しあわせではなくっていい」、という考え方がある。

なので、アルボムッレ・スマナサーラさんのような「自分のしあわせ」をまず最初に願う思想、自分の人生を大切にする思想とは真逆な考え方なのだとわたしは思います。

(貧しくっても幸っていうことはある。かなり不自由でしょうけれど。でも豊かなほうがイイんではないでしょうか?どちらかといえば。貧しいひとを救うためにも・・。豊かっていうのは、人間がより自由になることなんです。1つのたとえをあげると、先進国の障害者は貧国の障害者よりも自由にできる部分は増えるんです)

ではどうしたらいいのか?

藤野英人さんのご著書の「投資家がお金よりも大切にしていること」に答えが書かれています。

「じつは、清豊でなければ成功できない」と。

いまの若者のジレンマは、「この世の中には『清貧』と『汚豊』しかないよな・・」ということです。でしょう?

汚豊」というのは、汚いことをしないと儲けられない、という考え方です。

豊かになることはケガレたり、ヨゴレたりしないとなれない、と無意識に感じている。

豊かになることをどこかで嫌っている。ソコに清貧の思想のワナがある。

清豊の思想といったことを語ると決まって、

「そんな生き方はありえない。単なる理想論だ!」

「きれいなだけでは金儲けなんてできない。清濁あわせのむ、清き水には魚すまず、ともいうでしょう?もっと大人になりなさい!」などと間違いなくいわれることでしょう。

藤野英人さんは23年間に5700人の日本の社長を取材しています。自分が投資先とすることに決めるためには結局、経営者の考え方、人となりがいちばん大事だとわかったからです。

自分で会社を起こし、苦労して株式上場まで果たした創業経営者の多くに、

清豊の思想について藤野英人さんが語ると、

「そのとおりです!!」と賛同してくれる。

清豊が嫌いで清貧が大好きな日本人の中にあって、

清豊の思想に「YES!!!」と相槌をうってくれるのは、決まってこうした創業経営者だったそうです。

もしもあなたが、これからしあわせになって、豊かになりたいと感じているならば、

「清豊の思想」1つ理解するだけでも「投資家がお金よりも大切にしていること」は役に立つハズです。

「清く豊かに生きることは可能であり、また『清豊』を目指すことが、

結果的に長期間にわたって人生で成長していくことにつながる。」

すくなくとも、投資家にも、汚豊ではないヒト、ちゃんとした真面目なひとがいらっしゃることは知っておいて損はありません!