昨夜、久しぶりに大学時代の先輩後輩達と集まりました。
恩師の油彩の個展が開催されるので、その初日に先生にお会いしその後仲間内で飲もうという事になりました。
恩師から油彩を4年間わたしたちは学びました。

毎年会っている先輩と数年ぶりの先輩と。数年ぶりの方々はやはり変わりっぷりが感じ取れます。先輩方もわたしのことを学生時代と無意識に比べていたことでしょう。やはり、職場とは違った気取らない、学生の頃のことなども話題にしながら、楽しく過ごすことができました。職業はさまざまで、スーパーマーケット勤務、漫画家、印刷の営業、画材店、大学の講師、主婦といった面々。

卒業間際であればやはり先輩後輩といった学生のころのナゴリが残りますが、みなさん社会人のベテランなので、同じ立ち位置での話題といったことにもなります。恩師の絵についての忌憚のない意見なども飛び出しました。なによりも、普段の生活や職場とは異なる懐かしさも手伝って、自分の学生のころのことを思い出している。

群馬県から来た先輩は、個展会場へ向かう前に、自分が住んでいた下宿のアパートを見に行ったという事です。駅を降りてから道がわからない。どこもかしこも変わっている。学生の頃、下宿の前の階段で女性が倒れていて、友達と救急車を呼んで病院まで付き添ったことがあったそうです。その階段は以前のままであったので、「そう、ココだ!」とわかったということでした。

結婚している人、独身の人、子供のいる主婦。日常では違う顔があるハズです。それでも、この面子だと学生の頃そのままに会話が弾む。

建前と本音って必ずありますね。わたしは、学生の頃には、建前で正直でないということが嫌いな性質でした。
「ホンネを言う人は正直で、建前をいう人はウソつきだ!」という解釈をしがちな方も多いのではないでしょうか?
建前とかウソのようなことで振る舞う人を見ると、何かホントではない偽り事のように感じてしまう。それでも、人間関係や仕事を円滑に進めるためには、「建前の舞台」で演じていくことも必要です。

建前ばかりで、本音をないことにしてしまうと余計にストレスがたまってしまう。そこで、対する相手次第で、ホンネと建前の比率をかえてみる。そうすることで自分の顔を使いわけていく。自分の頭の中の思考はすべて本音でもいいかもしれない。家族やごく親しい人となら、本音と建前をミックスし、赤の他人や世間一般とは建前でいくとうまくいくものです。

建前が濃厚な日常を暫し離れてたまに親しい仲間内でホンネで語ることは楽しいことですね。
わたしたちは、毎夜飲んだり、先輩の下宿に泊まったりといった学生でした。昨日お会いできなかった、学生のころ部長をしていた先輩の最近の写真を見せて頂き、「うつだってさ・・」という話しを聞いたり。元気でいるかな?と少し心配したり・・・。

社会に出てからはなかなか友人ができにくいとよく言われます。若い頃に叔父から言われたことがあり、この頃では実感しています。社会に出ると利害がつきまといます。お互いが腹を割って・・・ということがなかなかできません。利害関係のない友人知人というのは中学でも高校でも大学でもいいんですが、学生時代にしか作ることができない。もちろん、学生時代であっても利害優先という人もいる。

人それぞれに、仲がいい友ができる時期は異なるのかもしれません。管理人は大学の頃に「できやすい」時期がありました。周りの知人には中学の友が続いている人もいたり・・・。わたしはそれでも、大学の新入生の頃には、タテ型の雰囲気が嫌いでもあり、そのころは嫌いな先輩もいました。(タテ型というのは犬系です。わたしは猫系なのでしょう)

ところがなぜか、その嫌いであった先輩と社会に出てから徐々に親近感が増して一番親しくしている。親しいことには、単純に気があうということではない理由があります。お互いが根っこの部分で共通の何かを大切にしてる。わたしたちの共通項それは、絵を描き続けること、です。

あなたが、何かを人知れずに大切にしていると、同じような人と仲良くなれる可能性が高まります。お金より上の位(クライ)にその大切(好き)があると、損得抜きの友ができていきます。なぜなら、同じような事柄や人を大切にしている人と、共通する何か(価値観?)がきっとあるからです。「大切にしている」というのは「好き」ということでもいいですし、真逆の「嫌い」でもいい。「嫌い」の源泉には反対側のスキが隠れているものです。

とりたてて大切にしている何かがないよりは、何かがあった方が、ただ「気があう」というよりも深く、強く、長く、刺激を受け合える関係が育まれていくと思います。捉えどころがないいい方になりますが、真善美といった方面で何かを追求していくと、いい出会いが訪れる、いい人というのはそうしたことに関心がある人です。

社会に出てからも、利害のない友達を作ることができます。どうしても、日本の社会はタテ型の社会です。「自分より上なのか下なのか。」ということを大事にしてきた歴史が日本にはある。そうしたタテのククリの中で、それでも自分自身に利害とか損得とかといったことを抜きにして、相手を大切にしていく気持ちがあると、極稀に友を作ることもできる。あなたからまず、相手のココロが喜ぶことをしていく。種を蒔き続けていく。聖書には、「あなたがして欲しいと思うことをしなさい。」ということが書かれていますね。

極稀(ゴクマレ)なほど少ない理由はたぶん、こちら側(あなた)にではなくて相手側にあるのだと思います。相手が上下とか損得という「ククリの中」でしか物事を考えられない場合には、こちら側(あなた)がいくら扉を開いていても上手くはいきません。相手の扉は閉まっている、ということは気にしないことです。人の心を変えることはできません。

そこでめげないで種を撒き続けていくということは自分自身の問題です。自分のことなら変えていくことはできるんです。ここら辺が人生での勝負どころです。

「自分のことなら変えていくことはできるんです」とは、めげそうな心を変えていく、という意味です。「自分自身に利害とか損得とかといったことを抜きにして」と先ほど書きましたが、最初に損を自分が選んでいくことで、実は巡り巡ってココロの栄養をうることができる、自分の根っこのところでとてもうれしいことになっていきます。たぶん、「うつ」の反対方面の「元気」はそちら側にあります。

御年87才の恩師先生は、70年以上ひたすら絵を描き続けてきました。その頃、日展入選最年少ということで話題になった方です。長崎で被爆されて、被ばくによる差別から結婚がなかなかできないことがある。「いいよ」とプロポーズを応諾してくれた結婚秘話を先生からお聞きしたこともわたしが社会人になってからです。

その奥様を介護しながらも、いま絵筆を握る。したことがなかった料理を作り奥様に食べさせる。オムツを取り換える。介護だけでも大変です。とてもとてもシンドイに違いない。そうした介護の合間に絵を描く。毎年新作を発表していく。高齢になると新聞を手に取ることもできない程筋力が衰えると介護の専門家に聞いたことがあります。

油彩は水彩と違ってとてもチカラが必要です。満身創痍といった中で、それでも描き続けていく。先生はわたしが学生の頃には決して弱音を語らない方でした。最近は、苦労話しをそっと語られます。わたしを語れる相手と認めて頂いたのだと感じとります。2年後には銀座の画廊で新作を発表するという。今回の会期にもう一度会いに行きたいと思っているところです。