なぜ人を人は嫌いになるのか?嫌いになる理由・原因は何なのか?
世間や職場の上司や顧客に対して、イヤと感じる原因は、どこになるのか?
もしかしたら友達でも自分の親兄弟に対してもイヤと感じる人がいるかもしれません。その「イヤ・嫌い」の原因は?

この「イヤ・嫌い」のために、元気に生きていくことができないことがある。気持が萎える原因がある。そこを乗り越えると元気に前に進むことができる場合があります。もちろん、管理人の体験に基づいた実験済の方法です。

世間や職場の上司や顧客に対して、イヤと感じる原因は、どこになるのか?
世間や職場や顧客に悪いところがあるからですね。もしかしたら友達でも自分の親兄弟に対しても、悪いところがあって、嫌いと感じている方もいるのかもしれません。

嫌いになる人が間違えているから、間違えていない私が損なコトになってしまっているから。「こんなはずではない。」「そんなのおかしい。」と世間や職場の上司や顧客の悪い・おかしいところをどうにか改めてほしいと思う。それでも改まらないから「嫌い」になるのでしょう。

若い方々でも青春を謳歌している、楽しくしている方も沢山いることを知っています。それでも、気持が前に進めない、生きていく気力をつかむキッカケを見いだせない若者も多いと管理人は感じてもいます。人間不信ということも原因となっているとこの頃思います。

昨日、電車の車中、わたしの向かいで中年のサラリーマンとその隣に制服のランドセルの小学生が座りながら眠っていました。サラリーマンが移動中に寝ている横で、何かに疲れたように眠る子供の寝顔が微笑ましい。この頃の小学生や中学生も塾や習い事で毎日忙しいということなので、この子も隣のサラリーマンのように疲れているのだろうか?などと暫し感慨に耽りました。

その小学生を見ていて、わたしはあまり普段感じていない、でももしかすると「気持の萎えている若者は、こうしたことで傷ついているのかな?」とフト思ったことがあります。このところ東京近郊で電車の遅延が多いです。故障ではない身投げの遅延。一日に何度も、今日も明日も・・という週があります。だいぶ以前、管理人は遊んだ帰りの大宮駅で、身投げの男性をホームに引きずり戻したことを思い出しました。

その時たまたま居合わせたサラリーマンが無言で協力してくれた。一瞬の出来事。身投げしようとした方は、「すいません、すいません。」と謝っている。それでも、わたしたちの周囲2Mから先では普段通りの人々の波。ひと一人亡くなるか否かの場面でも、全く関心のない人もいる。わたしには、ちょっと異様な風景にも感じられた。

最近の若者を、「親しい友達以外はすべてを風景のように感じている」という方もいます。人間味がないという批判めいた評論は一面で当たっている。その原因はどこにあるのか?実は、その親の世代や世の中が、人間の命に無関心だから、そのことにこころを痛めた結果、子どもの頃のどこかで変容してしまった先の姿なのではないか。

このランドセルの小学生のような年頃には、純粋で事の本質をダイレクトに感じ取る賢さがある。ひとの心を覗いてみることはできませんが、普通には些細なできごとで慣れっこになって自分では通り過ぎてしまうことに、理不尽さや非情な世の中を感じ取る、そうした純粋な若者も多いと思います。

たぶん、先ごろ引退を表明された映画監督の宮崎駿さんの「『この世は生きるに値するんだ。』ということが映画で表現したかった一貫したテーマでした。」という言葉の意味には、世の理不尽さや非情を純粋に感じ取ることができる人だからこそ湧きあがる対決・戦いのようなものが含まれている。世の理不尽さや非情に打ちのめされないために。