孤独悩み孤立ココ東京周辺では、毎日のように電車が止まっています。ケーブル火災などもありましたけれど、身投げ、人身事故が多い。夏休みが終わるのってどのくらいイヤだっただろうか?と振り返りました。

わたしは幼稚園の頃に兄たち小学生の楽しげな様子を見ていて、小学生になることに憧れていたこどもでした。小学校の兄さんお姉さんたちが大人びてみえていて、はやく自分も小学校に行きたい!とおもっていたのです。

いよいよ小学校に入学すると学校の校門がまだ開くずっと前に登校して、早すぎて自宅に戻る、ということがあったのだそうです。そのくらい行きたい小学校でした。

ところが、高学年の先輩から朝礼の校庭でかならずいじめられる。だれも助けてくれない。担任の先生はみているハズなのに、どこかへいって助けてくれない。

先生には何かで嫌われたのでしょうか。クラスでも先生からいじめにあいます。憧れていた小学校は、いつしか行きたくないような小学校に変わっていました。

小学生のころのわたしは、「いじめられている・・」ということがそのときにはわかっていなかったのかもしれません。おおげさにいうと、こうしたツラサが世の中の現実なのだと思っていたのかもしれません。同級生からいじめられたことはなかったとおもいます。

満員電車に乗ったことがあるでしょうか? 首都圏にお住まいの方ではないと想像できない世界があります。

満員電車東京都心の電車ではよく定員オーバーな満員電車になります。となりの人と肩が当たったりカバンが背中にぶつかってバランスを崩すことがあります。かなりアナーキーな無秩序な先生のいない世界になるので、勝手気ままに気持ちがあらわになる時間帯があります。

満員電車でも新聞を広げることはふつうなことのようですし、スマフォや読書も勝手気まま。わたしも新社会人の頃には新聞を電車で読んでいたひとでした。

自分の体勢を保つためにとなりの人のことはあまり考えないひともすくなくありません。ヒジで押されたり、つり革を奪われるようなことはふつうなことです。足を踏んでも謝らないこともふつうなこととなりました。

サラリーマンが団結すると怖いので、サラリ-マンを孤立化させる。こうしたことを知らず知らずにしていった、積み重ねていった結果が実ったのでしょう。

そうした意図・施策にまったく気づかないサラリーマンさんたちは、先生のいない電車の一時のちいさな無秩序でせきららにご自分の本音をぶちまけることもあります。

ご自分が動いたのに、となりがぶつかってきたと簡単に判断して攻めてくる。

たとえば、たがいの体勢が崩れてて、ヒジでとなりを押して、自分の体勢を立て直すようなときに、体を押されることがあります。

押されたら押し返す。

みなさんあたりまえのようにされている。

自分の体勢が押されたことで余計にバランスが崩れるので、体勢を保つために押しかえすことはふつうなことなのかもしれません。

でもわたしにはその押し返すことができない。苦手です。野蛮(ヤバン)な行為のような気がして、対抗するのが野蛮な行為のように思うので、したくはない、そんなタイプです。

ドンドン自分の支配?領域が狭まります。身をどんどん縮ませるだけ。

そんなわたしですけれど、出入り口でドッシリ構えて扉が開いても出入りの人のことにおかまいなしという人には力ずくで押していってどうにかホームに出ることがあります。そうしたときの自分の行動を野蛮だとおもたことはありません。

もう夏休みが終わっている生徒さんもいるようですね。わたしも学校に行きたくないような生徒でした。かなりブルー。でも同級生からはいじめられていなかった。もし、同級生からはいじめられているのなら、死にたいと思うのも当然です。

鎌倉図書館では、「死ぬほど学校に行きたくないのなら、図書館にいらっしゃい。」というメッセージがされているようですね。東京シューレという不登校を受け入れる民間団体もあるようです。

ご両親は将来を考えてこどもに「学校にいきなさい。」というものです。でもこどもは自分に降りかかっているイジメをことばに出すことができません。わたしもそうでした。

いまはわたしのころよりもいじめがエスカレートしているのだと思います。

信号_止まれ自分の痛みを感じなくなったからなのでしょう。こどもどうしで全身で本気でけんかをしなくなった。キズを負ったことのない人は相手(他人)そのキズの痛みがわかりません。なので、力加減もわからない。

本音で話す相手を得ることも諦めている。

いじめられ続ける人は、やさしい人なのだとわたしはおもいます。対抗することが野蛮でイヤなのでしょう。

でも、死ぬほど耐えられないということは、逃げるか押し返すかの2つの方法のどれかを強行しなければならない危険な状態です。不登校でいいんです。気持ちが落ち着いてきたら、聞いてもらえるひとに話していく。

まずは、逃げる。いますぐに。人に向けているやさしさをいまは自分だけにむけなければいけません! 緊急事態だからです。

 

神田日勝という農民画家の「室内風景」がギャラリーでご覧いただけます。まるで、高校生の頃のわたしそのもののように感じたことがあります。いつしか北海道の美術館に行きたいと思っていたことを思い出しました。(高校生以上の方にとっての味方になると思います。)

ミレーという農民画家をご存知でしょうか?

神田日勝美術館落ち穂拾い という農民が畑仕事をしている絵画は学校の教科書に掲載されているとおもいます。ミレーはその当時としてまめずらしい農民の生活風景を絵画のテーマとして農民画家とよばれています。神田日勝さんは、ホントに自分が農業をしながら絵画を描かれてきた方。

美術評論家には、神田日勝さんこそ農民画家です、という方もいらっしゃります。

高度経済成長期で農業にも機械が取り入れることがふつうなときに、馬や牛によるむかしながらの農法をされながら、農作業で生計を立てながら絵画を描き続けられた方です。テレビなどにもとり挙げられている画家ですよ。惜しくも30代で急病で亡くなられています。

絶筆の馬の絵をぜひ見に行きたいとわたしはおもっています。板に途中まで描かれたその馬の表情はいまここで生きている、息をしているようにしかみえない。その馬の目はひごろの農作業で働いてきた哀愁と、いまを生きるたくましさを併せ持っているようにわたしは画集をみて感じました。

”賢治の学校”の鳥島敏子さんの遺志を継いで東京賢治シュタイナー学校というものもあるようです。高校生以上の方には「賢治の学校―宇宙のこころを感じて生きる」でご自分を取り戻す、深呼吸できるとおもいます。