10/19 18:00~BSフジで放送された「五木寛之の風のCafe」のゲストは、稲盛和夫さんでした。
稲盛和夫さんは、京セラの創設者で後にKDDIを設立され、日本航空を再生された方です。

稲盛さんの著書の「生き方」は中国で150万部のベストセラーとなり、日本バッシングのあった頃、中国国内の書店からは、日本関連の書籍が一掃される中、稲盛氏の書籍だけは、書棚にそのまま並べられていた、ということです。

わたしの不案内なだけかもしれませんが、稲盛和夫さんが仏教徒だということをこの番組で初めて知りました。

「実は、輪廻転生を信じている者ですから、あまり死を怖いと思ったことがありません。親戚などが亡くなっても、悲しくないんです。人間というのは、必ず死ぬもので、死というのは特別なものでもなんでもないんです。肉体はこの世に残して、魂(こころ)は新しい旅立ちをする。

せめて、この世では、その魂を、現世を磨き砂にして、魂を磨きたい。」と稲盛さんは仰います。あの世に行くまでに魂、こころといってもいい、そのこころを清らかに美しくしたい、といいます。

仏門に入って修行されている人が言いそうなことを、会社を経営してきた方が仰ることに驚かされます。

ビジネスの厳しい戦いの場で、こころを美しくする、ということができるのか?と五木寛之さんは疑問を投げかけました。

稲盛さんは、「厳しい世界だからこそ、自分の拠り所をしっかりと持つことで、自分を見失わずに進むことができるんです。」と仰います。

経営者が、このような考え方のもと会社を運営されていれば、その方を目標として仕事をしていくことができます。そのような立派な経営者ばかりではない。今の立ち位置から、普通の働く自分自身が、どのようにしたら、試練を磨き砂のようにしてこころを磨くことができるのか?

根本は、輪廻といったことをホントと感じとれるか否かなのでしょう。

実は、あらゆる考え方や教えといったものに「賛成!」と同意する瞬間というのは、賛成する以前のわたし、といった問題があります。たとえば、仏教を信じようと思うこころというのは、信じる前の自分という不安定な立ち位置からはじまります。実は、信ずる前で勝負がついているのかもしれません。

仏教では輪廻転生ということがある、と言われています。キリスト教では、イエスが復活した、ということが聖書に書かれています。人が亡くなっても、その人との思い出が自分のこころにはある、だから、こころの中でその人が生き続けている、と考える方もいます。

管理人は、若い頃には一信教にしか興味がありませんでした。確固たる存在があって初めて自分の目指す方向も定めることができるのだと考えたからです。
新約聖書の「山上の垂訓」というものに心を揺り動かされたこともあります。

もちろん、コーランも読みました。神がいる。全知全能の存在がある。では、なぜ、ひとりひとり様々な生き物が存在するのか?人間にひとりひとり違う脳が存在するのか?必要ないではないか?でもある理由がわからない。

1つの挫折の経験から、自分の内面について深く知りたくなりました。最初はヒンドゥー教に興味が向きヨガのようなものにおもむき、日本の密教に興味が移行していきました。ひとりひとりのテーマがあるのかもしれない。
神々という複数神のあることに興味が沸いたのかもしれません。

ヒンドゥー教から、密教に出会ってはじめて、自分がこれまでは外側・世界に向けて何をしていくか、ということばかり考えていたことに気づきます。そして、実は、「世界」というものも「わたしのこころ」が思い描いた、限定つきの「世界」でしかないことに気づきます。

調べていくうちに、魂といったものが存在することが確信となります。魂とか心といったものが実は身体を超える人間の本質なのだと考えるようになりました。ここで新たな問題ができました。魂が本質ならば、身体は必要ないのではないか?

身体は着ぐるみでしかないのか?

そこから日本の仏教を調べていくと、どうしても元々の釈迦自身の教えが知りたくなりました。調べていくと、もうそこには変形してしまったものしかない、という結論になりかけていた。そんな折、偶然職場のすぐそこに、初期仏教のお坊さんがいらっしゃることを知りました。その方は、当ブログで度々紹介させて頂いている、アルボムッレ・スマナサーラさんです。

初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラさんは、身体とこころを合致させるように訓練することで、悟りの方面に向かう方法(ヴィパッサナー瞑想)を説いています。身体の動きにこころを同調させていくと、幸せになる。やっと、問題が解消します。身体があることの意義がわかりました。

スマナサーラさんの著書に、「死後はどうなるの?」があります。
その中に「生まれ変わる場所が決まる瞬間」という節があります。その引用でおわります。

「怒り憎しみと恐怖に覆いつくされた地獄界から、一切衆生への慈しみと平安の境地に住する梵天界まで、途方もなく広がる多次元的な輪廻の世界で、わたしたちは死んだあと、どこに生まれ変わるのでしょうか。

ひとつ知ることのできる方法があります。みなさんにも高熱を出したり意識が不明になったり、そんな経験があるでしょう。そのときの自分のこころの状態はどうでしょうか?

重病になって倒れて、前後不覚になって高熱を出したら、支離滅裂なことをしゃべったり、いろんな幻覚が見えたりするのです。あのひどいこころの状態を考えてみてください。そうやって自己管理ができないときのこころの有り方が、来世を考えるうえでのポイントなのです。

・・普段どんな高尚な哲学を考えていたとしても、病気で倒れて意識がなくなったとき、私たちはこころの状態がどのようになっているか、そのポイントで次の生が決まります。

だから、死後があるといっても、あまりおもしろい話ではなくて、かなり怖い話です。

『常によいことを考えてください。 慈悲の心を持ってください。』
『怒りや嫉妬の感情は毒ですよ。』『冗談ででもそういうことは考えてはダメですよ。』と仏教ではいうのです。

明るくポジティブな考え方、生命を愛する考え方、善行為を喜ぶ考え方を癖になるまで訓練して習慣づけて、根元から立派な人間に育っていなければダメです。

そうすると、朦朧としたときでも、すばらしいものが見えたり、清らかなことを考えたりするのです。
そうであれば、もう次の生まれは心配ないといえるのです。」